リメンバーミー~ご先祖様たち~

のんびり土曜日の朝ごはん。

長女と雑談してたら、ご先祖様の話になって。

ふと、私が死んだら、うちの側の親戚やご先祖のことは、誰もこの子たちに語り継ぐ人がいないなと思って

「今のうちに教えておくね」

ということになった。

 

「金丸」というだけに、父のルーツをたどれば山梨だけれど、

「かねまる」は山梨に留まった人たちが名乗り、

「かなまる」は山梨を出て行った人が名乗っていると聞いたことがある(ほんとかどうか不明)

(そういえば、長女は4年生の時の夏休みの自由研究に「金丸の研究」というのをやってて、

金丸っていえば山梨県だと思ってたけど、実は宮崎県にもすごく多い苗字なんだって教えてくれたんだっけ。)

 

父方の私の祖父という人は、山師で、若い頃から一発当てようと、いろんな商売をしていたらしい。

ある時期、蟹工船(国語のテストのプロレタリア文学のとこで出てたよね)で働いてて、北海道で祖母に会って、

怪しすぎる!ってことで祖母の一族に結婚を反対されて、駆け落ちしたんだって。

 

東京に出て来て、職を転々とした後、幼かった父たちを連れて、満州(今の吉林省長春市)に移住して「大和屋」っていう和菓子屋をやってたらしい。

終戦とともに命からがら帰って来たそうだけど、大酒飲みで、父が中学生くらいの時に脳卒中で亡くなったそう。

だから、私は仏壇の中で髪も黒々として、カイゼル髭に着物(笑)のおじいちゃんしか知らないのね。

第5子の父にとっては一番上のお兄さんがお父さんのようなものだったらしい。

 

父方のおばあちゃんは、竹久夢二の女性を美人じゃなくしたような、柳腰、着物を着ていてたばこを吸ってる人。

8人の子供を産み育て、最後は肺がんで亡くなった。

ほとんど覚えていないけど、近所の公園の滑り台ですべる幼い私たちをたばこを吸いながら見ててくれてる写真が残っている。

 

母方の私の祖母は香川の人。幼い頃うどんの食べさせられ過ぎで、すっかりうどんが嫌いになり、蕎麦派だったのを覚えている。

幼い頃に母を亡くし、すぐに東京に出て来たそうだけれど、結婚した相手の私の祖父は結核を患っており、祖母が稼ぎ頭になって四人の姉妹を育てたこと。すごい教育ママだったらしい。多趣味だったけど、新聞への投書が好きで、投書用の「直子」っていうペンネームも持っていた。

 

結構キョーレツなおばあちゃんだったけれど、山草が好きで、絵具を持って外に出て、花をスケッチするのに付いて行ってた私は、このおばあちゃんにすごく影響を受けたと思う。

結核だった祖父は、明治生まれ。関東大震災をリアルに経験しているせいか、心配性で心配性で。家に初版本の「漱石全集」があったり、文化の日にかぶる用のシルクハットがあったり…。世代が大きく変わる節目を体験した人だったと思う。そうそう。このおじいちゃんに、三軒茶屋に日本初のマクドナルドが出来た時にちんちん電車に乗って連れてってもらったのを今でも覚えている。(笑)

ちなみにこのおじいちゃんの実家は浅草でおもちゃ工場をやってて、セルロイドのキューピー人形を作って儲かってたんだって。でも、工場が火事になって全部燃えちゃって、当時田んぼしかなかった世田谷に逃げて来たそう。

その浅草おもちゃ工場の私のひいおじいちゃん、会ったこともないし写真さえもないけれど、趣味が仏像を彫ることだったそうで、仏壇の中にたくさんあったリカちゃんサイズの仏像を見せてもらったっけ。

こうして書いてると、人の一生って、子孫に語られる際は、あの人は「あーなってこーなって」ってかなり大雑把に切り取られるし、かなり「え?そこ?」ってことしか語り継いでもらえなかったりして、なんか、自分の番が来たら、どうダイジェストされるんだか想像すると苦笑いが出て来てしまうけど、映画「リメンバーミー」的に言えば、これで当分、ひいおじいちゃんたちは「第二の死」を迎えずに済みそうってことだ。

あとの面々はフィルターを通さず、長女の記憶にも残るだろうから、大丈夫ね。

そしていつかまた、分からなくなったら、このページを参照してね。

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